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海外インターンブログ

東アフリカ最大のスラム街「キベラスラム」

アフリカビジネスプログラムinケニアにて、100年の歴史と100万人の人口を有するという東アフリカ最大のスラム街「キベラスラム」について、ケニア歴27年目の早川千晶さんに講演をしていただきました。
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私は2014年の5月にはじめて早川さんにご案内していただき、キベラスラムを訪問しました。

はじめてのスラム街に入るまではどきどきしていました。
どんなに危険なところなのだろうと。

しかし、スラムに入ってみると、そこには町がありました。
たしかにゴミがあちらこちらにあり、臭いにおいもします。
ただ、そこには人々の生活があったのです。

洋服を売っているお店やマンダジとチャイを出すカフェなどがありました。
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そして、印象的だったのが、
"How are you?" といって握手を求めてくる子どもたち。

これまで私は17カ国を訪問しましたが、子どもたちがかわいいなと一番強く思ったのは、このキベラスラムです。

貧しい地域で子どもたちが近寄ってくると、「お金を求められるのではないか?」と最初思いました。

キベラスラムの子どもたちは握手をして満足げ。そして、どんどん子どもたちが集まってきます。
"How are you?"の大合唱のようになります。

以下、早川さんの講演の一部をご紹介します。
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■土地の所有概念を持たないアフリカの人々

アフリカには無人の大地が広がっていた。
高地には農耕民族が暮らし、乾燥しているサバンナには牧畜民が暮らしていた。
「大地は人間のものではなく神のもの。だから人間が大地を支配してはいけない。
それがアフリカの人たちの考え方。そのため土地の所有概念は持っていなかった。

■ケニアの民族的多様性

ケニアには42民族がいる。起源も様々。

バンツゥー系はナイジェリア、カメルーンが発祥。
マサイ族などはイスラエルやナイル川流域から移動してきた。
クシュ(ソマリ系)はソマリアからきた。

そのように、大陸各地から民族が移り住んできた土地である。

そこは貧富の格差はなく、自由な共同体だった。
大地は全ての生き物のものであり、独占してはいけないというもの。
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■白人に奪われた土地、民族紛争の原因

1885年のベルリン会議で、アフリカ原住民のことは考慮されず、ヨーロッパの列強によるアフリカ分割がなされた。ケニアはイギリスの植民地となり、1896年の鉄道の敷設から植民地支配が進む。

ケニアは赤道直下にもかかわらず、高地は涼しく肥沃な土地がある。
そこで、白人が住み始めて、ホワイトハイランドという名前がつけられた。

ケニアで農耕に適した場所は、標高が1000m以上のケニア国土のわずか10%しかない。標高の高いケニア山の周りにある高地にケニアの農耕民族が暮らしていたのである。
しかし、白人たちにその土地は奪われ、農耕民族は農耕に適さない土地に強制的に移動させられた。そこは農業には不適切な土地で開墾してもなかなか農業生産ができない。しかもそこは元々は遊牧民が住んでいたところであり、開墾することで民族対立が発生する。

■ナイロビの始まり

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ナイロビは1899年にモンバサとウガンダの間に建設されていたウガンダ鉄道の給水および補修の拠点として建設されたのが始まり。

ナイロビに拠点が置かれたのは、インド洋沿岸のモンバサとヴィクトリア湖畔のキスムの二つの重要な港町の中間地点にあること、高原にあり冷涼でさわやかな気候を持つことなどから。

ナイロビは元々はマサイ族の土地であり、ナイロビはマサイ語で「冷たい水」という意味を持つ。

ナイロビの街は、ナイロビ駅前に50個のテントが置かれたところからスタートする。

白人は黒人から土地を無料で奪い、黒人からは税金を徴収。
一方で白人は免税。

白人は黒人にキパンデという身分証明書を持たせて自由な移動を制限した。
白人は高台に住み、白人と黒人の居住地区が区分けされていった。

■キベラスラムの始まり

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イギリス軍が、イギリスが保護国化したエジプトの軍隊を連れてきた。そのエジプト軍が奴隷として使っていたヌビア人を駐屯させたのが始まり。鉄道敷設の労働に従事させられていたので、鉄道の周囲に住み始めた。今もスラムの中には鉄道が走っている。

■スラムは低地にある

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キベラスラムは人口が100万人ほどいるといわれている東アフリカ最大のスラム。
スラムはかなり広い範囲に広がっているが、低地にあるため、ナイロビ中心部からは視界に入らない。そのため、その存在は近くまで行かないと見えない。
国はスラムに対して何もしない。国が認めていない場所なので地図上は空白になっている。

■高い人口密度

多くの人は長屋に住んでいる。4畳、6畳のスペースに10人が住んでいたり、2家族が住んでいることもある。

1,000人ほどが住んでいる中にトイレがたった1つということもある。

スラムでは水を得ることはとても大変。
並んで水を求めるスラムの真横にスプリンクラーが回っているゴルフ場がある。
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■夜明け前のラッシュアワー

スラムでのラッシュアワーは夜明け前の朝5時間頃。
1日たった100シリング(約100円)の賃金労働のために、遠いところまで歩いて出勤する。賃金労働したくても簡単にありつけるわけではないので、歩いていっても仕事がもらえないこともある。

■ないもの中からモノを作る天才

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ごみの問屋さんを経営している人がいる。スラムを歩いて空き缶を集めて仕分けしてそれを販売する。空き缶を買った人はその空き缶を使って、空き缶ランプを作る。そうやって何もない中からも仕事を作って生活している。

■助け合いの精神

スラムの人たちの収入では病院に行くことは困難。そこで、お金を出し合って、誰かが病気や怪我をしたら病院に連れて行き、そこから費用をまかなうというコミュニティーが存在する。助け合いに参加しないと、自分に何かあったときに生きていけないという背景もある。
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■貧困の中でも人助けをする人たち

1日100シリング(約100円)しか稼いでいないが、ストリートチルドレンにおかゆを作って配っている。その人は自分の家に孤児を引き取り、いまやその人数は400人。

■兄弟を大学まで通わせたスラムの女性

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両親のいない孤児であるリリアンさん。リリアンさんは自分の進学はあきらめて、連れ込み宿の掃除などをしてお金を稼ぎ、妹と弟を大学に通わせた。

その後、リリアンさんはスラム住まいの貧しい暮らしをしているが、孤児を引き受けるマゴソスクールをオープン。孤児は労働者として扱われる。働いているのに、家の中では厄介者扱い。孤児ではなくても、家にいられない子どもたちもいる。

密造酒を作って売っていてお母さんがアルコール中毒になってしまった子ども。
売春婦の子どもは、客がきているときは家にいることができない。

■2030年ナイロビメトロポリタン計画

スラムのアップグレードハウジングプログラムというものがある。2030年までにスラムをなくすという政府の計画がある。

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早川さんの講演の後は、キベラスラムの住む人たちや、以前住んでいた方々とのディスカッションを行いました。次回、その様子を紹介いたします。

全世界の若者の就職、キャリア支援をすべく、順次各国を回っています。

人がいいね!と言っています。
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